わが子を認めたい気持ちから
2010/03/15 きょう小児科学会倫理委員会が開いたフォーラムがあって
あゆみの看取り前後の話をした。
医療の話、というよりも、いのちの話をしたので、いつも以上に、
自分の内面の、かなり深いところを開いた。
話すことは平気だし、知られることも平気なのだけれど
話したあとで、しんどくなるのは、なぜだろう。
さいごで、こんな話もした。
「何年もかけて思い至ったこと」として
否定ばかりでは、生きていきにくいこと と
子どもがたどった道を、肯定する考えに傾いていくこと について。
このあたりは、自分が心のなかでつぶやけばいいようなことだったので
ほとんど詳しくしなかった。
詳しく話したとしたら、こうかな。
なんで、なんで、と思い続けたそのあとは
「もし、あのときこうしていれば」
という「もしも」ばかり、何年も考えていたように思う。
そしてとことん考えが尽きると、
そうだ。もうちょっと早く生まれてたら、きっと
あの子の運命は変わっていて、ああいう道はたどらなかったに違いない。
なんでもっと早く生んであげなかったんだろう・・
というようなところまで行き
さすがに、そればっかりは・・・ ということで
考え尽くしたつもりになったのだろうか。
もしも、の話は、楽しめるストーリーのことならいいけれど
結局、現実の否定なわけだから
これを繰り返しているうちは、苦しい。
苦しくても描いてしまうのだから、一通りは描けばいいと思う。
ひとしきりそうして、次に行けたのだと思うし。
「もしも」のあと考えたのは、「もしかして」だった。
もしかして、あゆみは、もともと1年て、決めてたのかな。
そんな考えが自分のなかに持ち上がるなど、考えられないことだった。
もちろん確信したわけではない。
ただ、なくなった子どものことは、何でも肯定したくなるから
こういう「もしかして」に結びついたりも、する。
つらいという気持ちは、
あゆみを責める気持ちとは、まったく別のものなのに
なにか、なくなったことを、とがめているような気にさえなる。
病気になったことを、いけないことのように。
あゆみが辿った道を否定することは、
あゆみ本人を否定することにならないのか?
と考えたりもする。
もちろん、これでよかった みたいに思うわけはないけれど
仕方のないことだったのかなあ というところへは
近づいていっている気がする。
投げやりな気持ちでは、決してない。
あゆみを認めてやりたい。
ただそれだけかもしれない。