「思い出すとつらくなる」という言葉
2011/05/19 「思い出すとつらくなる」
と、よく聞く。
そのため、会のつどいに来れない人が、結構いるという。
つらい体験、出来事は、すべて「思い出すとつらくなる」。
けれども、亡くなった子については、どうなんだろう・・
子どもの死は、つらい、などという言葉で言い尽くせない
おそらく言葉に当てはめられない感情であり、現象であろうと思う。
だから、「つらい」はもちろん理解できる。
ただ、話したり聞いたりしたときに
その子のことを「思い出す」のだろうか。
「思い出す」とは、
普段忘れていることが、何かのきっかけで蘇ること
だとすると、失った子のことを、親が普段忘れるだろうか。
あり得ない。
おそらく、「思い出す」は、言葉を使い誤っているのだろう。
「じっと見つめるとつらくなる」或いは「言葉にするとつらくなる」
なら、まだ理解できる。
が、あいくに、手に取るように分かるわけではない・・・
私自身、あゆみのことを、言葉にすることが楽しみだったため
よく分からないのだ。
私の場合、
話すごとにあゆみとの繋がりを太くさせてもらえた。
今もあの子の親であることに、誇りを取り戻させてもらえた。
だから、あゆみを話せる場所と機会を、自ら求めた。
一方で、
日常のなかで、あゆみを言葉にできない事情が、いくつもあった。
まず、言えば心配される。
「でも前を向いて行こうね」みたいに。
前は向いてるよ、と本人はと思っていても、
後ろ向きと、取られてしまう・・・。
そして警戒される。
「あゆみちゃんのことばかり考えてたら、体に悪いよ」みたいに。
えっ?あゆみが、私に悪い事をするわけがないじゃない。
としか思えなかったが、
所詮、わからないらしい。
そんな、周囲が抱く感覚など、どうでもいい話で、
問題は、
当事者本人が、見つめると、言葉にすると、つらいというはなし。
「つらい」は、間違いなく遺族の全員にある。
けれども、私のように、語ることが楽しみで元気になっていくタイプと
語ると苦しくなるタイプの人が存在するところに
遺族の多様性を感じる。
共通体験をもちながらも、分かり得ないことに対しては
とにかく真摯に受けとめ、
その立場の方々に教えていただきながら
できる限り繊細に対応していこうと思う。
おそらく、どなたも、
わが子のことを、忘れたいという考えは、ないはず。
そうであるならば、
記憶や思い出を、苦痛なく振り返り、見つめることができるように
いつか、自然と、なれればいいな、と願うばかり。