同じじゃなくても一緒に悲しめたら
2016/04/10 きのう、4か月ぶりに日記を書いたら
直後に、「見ましたよ」とメールをくれた人がいて
とっても嬉しかったから、きょうも書こう。
成人のお子さんを、病気で亡くされたお母さんと話をした。
内科でのことなので、「小さないのち」にはお誘いできなかったけれど、
それは本当につらいなあ、と胸が詰まった。
お子さんが事故で大けがをして
懸命な治療とリハビリを乗り越えて、社会復帰されてから
急死されたと…
わかります、と喉元まで出た言葉を
飲み込んだ。
父と重ねたのだ。
脳梗塞を起こして、大手術をして、リハビリの長期入院を乗り越えて
ようやく家に帰ってきた3日後に急死した父。
いまも悔しく、不憫でならないのだけれど
若いお子さんを亡くされたお母さんと
重ね合わせられないと思った。
口惜しさは、次元がちがうとも思う。
思えば、あゆみが亡くなったとき
よく人から言われた。
「わかります。私も父を急に亡くしたから、家族を突然失う辛さは、痛いほど」
そんなとき、当時の自分はどんな表情を見せたのだろう…
親を亡くすのと、子を亡くすのは、きっと違うとおもう
と思ったような気もする。
違う気がするけれど、わかると言ってもらえるのが嬉しい
と思った気もする。
同じってことを強調しなくても、わかると言えなくても、いいんじゃないかな
と思った気もする。
この3番目を、痛感したのは、
お子さんを亡くされた、あるお母さんの話を聞いたときだった。
お母さんが、悲しみを必死でこらえていたとき、
看護師の一言が、プツンと忍耐の糸を切った・・・
「お母さんのつらい気持ち、わかります」
ここまでにしておいたら良かったのだと思う。けれども続けて
「私にも同じ年頃の子供がいますから」
えっ?あなたと私、同じは、子供の年齢だけじゃない。
あなたの子は元気で、これからもずっと生きていく子じゃない。
何がわかるって言うの?
そんな幸せなあなたに、今の私の気持ちがわかるわけない!
って憤りを引き起こしたのも、
「同じ」を強調したがため、だった。
でもお母さん、そのとき一言も発していない。
よくこらえたよね。
子供を亡くした親が強くなれる理由が、こういうところにもある気がする。