弱っているときは失いやすい

2019/07/03

これって、墓じまいをやめさせようと、圧力がかかっているからか?

という兄の推論を、「あるのかも」と受け取るのは

(兄も)私も弱っているということに思える。

 

じゃあ、誰の圧力?

ご先祖様?

両親?!

両親ではないと思う。

両親は、そういうこと子にしないと思う。

 

冷静に考えれば、判断がつきそうなことを

冷静になど考えられなかったのが、子どもの死だった。

 

あゆみが亡くなったあと、

その人なりに、いろいろと考えてくれた友人がいて

お祓い系の、供養系の、お祀り系の、いろいろなことを勧められ

ぜんぶ言われるままにして、

うん十万円を払ったことがある。

「いろいろ」の合計額が、そうなった。

 

うん十万円の「うん」とは、四捨五入すると次の桁に届く額。

それを、すんなりと払った私の胸中は、

今からでも、あゆみのために、できることがあるなら

それであゆみが、少しでもいい状態で過ごせるなら

という一心だった。

 

親がすべきことは、子どもの日々の世話であり

それができなくなってしまい、手が届かなくなったなら

届けられる?専門家??の手を借りて、

届けてもらうしかない。

どうか、あの子がこの先、苦しむようなことがありませんように

どうかどうか、よろしくお願いいたします(どなた様か存じませんが)

 

どなた様か存ぜぬ相手に頼りきるほど

見境がない、というよりも、非力で無力な自分。

支える術は、身近な人の心からの思いやりだった。

 

私にその一連のことを勧めた友人は、心からの思いやりだったと思う。

だって、その人は、今話題になっている闇営業のような仲介料は

一切とっていないし、善意の気持ちが肌で感じられた。

 

したことを、否定も後悔もしないようにしているけれど

この体験は、収まることもできないものだった。

 

なぜなら、

自分の頭でものを考えるようになったとき、

そういった善意の友人とは、距離を置くしかなくなり

悪意や軋轢がまったく生じないまま、繋がりを絶つ

つまり友を失う、というのは、

「何故こんなことに」も思うし

「さらに失ってしまった」も思うことになり

収まりようがないままになってしまう。

 

私が悪かったのかなあ

最初に断っていれば

でも、ただただ弱っていた。