いつ、どのくらい、泣いてくれるか

2020/02/21

臨終のときや、死別直後に、心ある人が

家族と一緒に泣いてくれたら、どんなにいいか

と私は思っているけれど、

実は、いつ・どのくらい、という要望がある。

 

いつ、というのは、

家族より先ではないほうがいいかもしれない。

それは、

先に泣かれて、泣けなくなった

という声を耳にするからだ。

私自身は、実感がないのだけれど、人の話から

そこには何か生じるのかなあ、とずっと考えている。

 

ただ、患者本人としてなら理解できる。

私もそうだったが、

「私、がんなんだって」と身近な人に打ち明けたとき

ワーッと泣かれ、相手をなだめることに終始したことがある。

わたし大丈夫だから、とか、わたし頑張るから、とか。

こりゃ、うっかり打ち明けたら、いかんな、とも思った。

 

臨終のとき泣く、の話に戻り、

どのくらい、というのは

家族よりワーワーと泣かれて、泣けなくなった

と聞くことがある。

 

これは、私も経験があり、

あゆみが亡くなったとき、近所のママ友が来てくれて

ワーワー、ワーワー、止まらなかった。

そこまで思ってくれて、と胸を打たれたものの、

ありがとう、を言い続け、その人に寄り添うことに疲れていった。

 

その日は、まあそれで良かったのだけれど

翌日、ふらふらとゴミ出しに行ったら、

その人、ビュンビュン自転車こいで、とても元気そう。

 

生活しているのだから、当たり前のことだけれど、

どんなに大泣きしても、泣き止んだら、もう普通、

を目の当たりにし、思わなくていいことまで思ってしまう。

そりゃ、他人だしね、とか。

そんな自分が、自分に醜く映り、ちょっとしんどい。

 

仕事で関わる人は、私生活は見えないのだけれど、

泣き加減というのは、

家族と同等、或いはちょっと手前が、いいあんばい

ではないだろうか。