わかり合えてうれしい、が基本

2020/02/25

「ぽつん」はあかん、を話し合うようになった 続き。

当会にスタッフが整ったのは、発足から随分経ってのことだ。

なぜなら

子どもを亡くした家族会だから。

元気ではない当事者で構成する「自助グループ」だから。

 

それでも、この人なら、

という人たちがスタッフとなり、集結してくれた。

行事に関して計画を立てたり準備をしたり、

会報を作成して発送したり、

会の方針を検討したり、と

運営を分担してくれている。

 

こういう体勢は不可欠で、

もし、誰か一人が、例えば私が、

何でも思うように方向づけ、結論づけていくと、

宗教っぽい活動にだってなりかねない。

 

私は教祖になりたくないし、会長と名乗ったこともない。

小さくても組織であれば「しるし」のようなものが必要だから、

これまで代表と銘打ってきた。

 

こうして組織だってきたことに安堵した頃、

「ぽつん」に目が向いたのだ。(鈍いはないか!)

自分が、よそで、「ぽつん」を体験してようやく。

 

それまでは、

共通体験をもつ者同士の強み、

自助活動における対等な関係性(職種や肩書きはここでは無関係)や

全員にとって自身の会、という位置づけを、過信していた。

けれど、自助グループが何なのか?など、

ふつう、知ったことではない。

判断基準は、最初の雰囲気だろう。

 

新しく訪ねてくださる方が、「ぽつん」とならないために

スタッフのほうから声をかけ、話しやすい相手である

ということは、期待されることであるだろうし

話せば「同じだ」「私だけじゃなかった」と思えたり

わかってくれて嬉しい、わかり合えて良かった

という感触が、とても大事なはずだ。

 

年数を経たスタッフも、変化してしまうことはなく

日の浅い人と共通する面を、必ず持ち続けている。

けれども、互いに見えにくくなることがある。

その理由の1つは、

円滑に「運営する」ことに意識を向けるからで、

それは組織を維持するために不可欠なことであり、一方で

ちょっとした違和感を生じるような、矛盾をはらむところが

最大級の悲しみと向き合う「子どもの遺族会」の特性

なのではないか、と思える。