「あちら」と「こちら」では難しい

2020/08/20

昨日の授業後の質問で、もう1つ

ええ確かに、と同意した上で考えたことがある。

 

例として、ダイキの幼稚園の園長の話をしていた。

あゆみが亡くなった後に、

「一度ゆっくりお話ししませんか」という優しい電話があり

私は、喜んで会いに行くなり泣いたり、嘆いたりで、

園長は、「きょうはそういう話をするために

来てもらったのではありません。」となり、さらに

「死んだ子のことよりも、生きている子のことを考えて」

となった。こうしたことについて、

責任ある立場の人は、親に言うべきことがあり、

その用件を、当事者を傷つけることなく伝えるには?

という質問だった。

 

素晴らしい着眼点で、その通りなのだ。

幼稚園は、ダイキを護ろうと一生懸命。

私は、死んだあゆみを、まだ守ろうと一生懸命(?)。

園長の行動を、全否定はできない。

では、なぜ私は傷つき、

どういう対応が望ましいか?だ。

 

まず、言葉をさえぎって用件を優先する行動

これはやめたほうがいい。

話は、途切れるところまで聴いた上で、

「だからね」からではなく

「そうですね」に始まり ←苦しいことは事実なのだから

それから改善を求める、という順序ではどう?

と話したのだけれど、

あとで思った。

 

位置関係なのではないだろうか?

さえぎって、厳しいことを言われた途端、

相手は、「あちら側」になった。

 

味方であるなら、「こちら側」だろう。

こちら側に位置し、問題を、一緒に並んで見つめる。

 

指導者は、そうではないことが多い。

あちら側から、私の中にある問題を、私を凝視するように見つめる。

私は、その視線に怯える。

視線だけでなく、言葉にも。

 

並んで見つめるとき、そうコワイ言葉は

出ないんじゃないだろうか。

普通の言葉が、優しく聞こえることさえ、あるかもしれない。