会報で書いたことを日記でさらに考えた
2020/11/22きょう会報を書いていて、
これまでに、心に響いた言葉を思い返して書いたのだけど、
傷ついた言葉にも少し触れた。それは、
この会を創った頃、「それって傷のなめ合いですよね」
と言われたこと。
自分も、仲間も、けなされたみたいな気がしたから。
でも「傷のなめ合い」って、なに?
改めて調べてみた。
辞書によると
「似たような不幸の下にある者がなぐさめ合うこと」とある。
うっわ、不幸のもとにある者?
んー、でも、人の死じたい「不幸」と言うなあ。
子どもの死そのものは、不幸なことであっても
不幸な親と思われたくはない
不幸な親になったわけではない
という気持ちからかなあ??
子どもの死を、不幸なこと、としたくないからか?
いや、子どもの死は、不幸なことでしょう。
んー やっぱり不幸とは思いたくないのかな??
不運のほうが、もっといやな感じはする。
よくワカラナイ・・・
もう一度読むと、あ、そうか
「なぐさめ合う」のほうが違和感ある。
なぐさめる、を調べたら
それほどおかしなことは書いてないが、でも
「一時の悲しみや苦しみをまぎらせる」というのは
ぜんぜん違うな。
この活動は、通常、「わかちあう」と言う。
この言葉の前に、付く言葉があるとすれば
喜びも 悲しみも 共に
どうしたって「まぎらせる」ことはできない。
むしろ、深く見たり、深く感じたりすること
のように思う。
わが子の存在と、わが子への思いを。
そこには痛みも伴うけれど、だからこそ
共に、支え合いながら
といった意味が含まれるのだと思う。
子どもを亡くした親同士の「わかちあい」には。