1月17日が私に教えてくれたこと

2021/01/17

きょう1月17日は阪神淡路大震災の日。

兵庫県の実家は、家が壊れたが、

当時暮らしていた大阪の自宅では

ひどい揺れに、死ぬかと思ったけれど

実際は、食器が壊れただけだった。

 

死ぬかと思ったことと、

実際に死ぬ(亡くす)のでは

天と地の違いがあり、だから私にとっては

震災じたいの記憶は、遠いものになっていて

そのずっと後で出会った男の子のほうが

今も大きく私に影響を与えている。

 

その子は、震災の前日に、引っ越していた。

もし引っ越しが1日遅かったら

倒壊した家の下敷きになっており

亡くなっていただろう。

 

このことを、お母さんから聞いたとき

ひゃっとし、助かってよかった!と思った。

でも、お母さんと出会っている、ということは

子どもが亡くなっているからなのだ。

 

助かった命は、3年後、突然奪われた。

こんどはインフルエンザに。

本当に突然。

目の前で、意識を失って。

 

この子が、なぜ私に影響を与えているか、というと

あゆみは、私が目を放していなければ

死ぬことはなかったはずだ

と思い続けていたから。

 

死んでも仕方ない、という考えには

どんな話を聞いても、決して至ることはないが

ただ、死なないときには死なないように仕組まれている

といった原理のようなものを、知った気がした。

 

昨日書いた知人のお子さんも、そうかもしれない。

でも、「運の良さ」と昨日も書いたように

本当の悲しみを知らない人の話では

入ってきかたが浅いのだけれど

お子さんを亡くされた方が語られる言葉には

原理や真理があるようにさえ思える。

 

べつに説得されなくても

声高に言われなくても

聴き入るからだろうか。

心の底に落とすからだろうか。