自分の体験はちゃんと自分の腕の中に

2021/04/04

前回書いた、「鍛えられた」体験

どう必要だったのか、改めて考えた。

 

あゆみが通った道の一部始終を、

目をつむることなく振り返ることができる

だけではない。

 

私にとって、こういう活動に関わっていくうえで、

重要だったように思う。

(普通の生活をしていれば、不必要かもしれない)

 

私がよく人から尋ねられるのは、

つらい体験ばかり聴いて、つらくなっていきませんか?

 

この回答は、

「まったくつらくなりません」

 

目の前の人にとって、とてもとてもつらいことであり

ことの重大さは十分に認識する。

けれども、私もつらくなっていくことは、ない。

なぜなら、

その体験は、「その人」のものであるから。

 

私にとって大事なのは

「その人」のために、何を自分はできるのか?

そして、自分にはできないのか? ←この認識も重要

これらを考えていくために

ただ「つらく」なっていては、ぜんぜん役に立たない。

 

そればかりか、

ともすれば、相手を傷付けてしまったり

追い込んでしまうことだって、起こり得る。

それって、まったく本末転倒。

 

よく未熟な支援者や運営者が

役に立ちたいばかりで、不可抗力なことにまで

「できる」かのような動きに出ることがあるが

そういうの、よくない。

 

俯瞰的に見て、行動に繋げ、持続していくためには

まず、私自身が抱えている体験自体を

ちゃんと自分の腕のなかに

包み込めているか、どうか、だ。

 

私を鍛えてくれた編集長に

私は一生感謝していく。

いつか恩返しがしたい。