わが子と引き離される苦しみと比較にならない
2022/08/02さらに3回目インタビューの中で出会った自分、のこと。
このインタビューは、学生の、研究協力なのだけど
「意味づけ」を知ろうとするものだった。
人は、災難や試練に直面したとき
その出来事を、自分なりに小さくしようとしたり
その出来事から、プラスの要素を見出そうとしたり
つまり転換をはかろうとする。
いわば、生きるための知恵だ。
そうした知恵は、子どもの死に際し、どう作用するか
を知りたいようだ。
最初に私は言った。
子どもの死では、直接的な「意味づけ」は
しないし、できない。
なぜなら意味づけとは、価値づけだから。
どんなに学ぶところが大きく
どんなに成長を促されるとしても
子どもが亡くなった「おかげで」、とは言わないもの。
そうして、1回目、2回目のインタビューは
その方向性を貫き、3回目で
私は、こんなことを言っていた。
あゆみが亡くなってからも
本当にこんなことが起きるのか?!
と思うような事もあったし
何で私ばっかり・・・
と思うような事もあったけど
あゆみを亡くした時を思ったら
比較にならないと、いつも思うもの。
おそらく、この先の生涯とおして
あの子と引き離されたこと以上に苦しいことが
私を襲うことは、ない。
言い切れます。
子どもの死に、意味をつけることは難しい。
でも
子どもの死は、間違いなく私を
たくましくした。
ここで思うのが
まだお子さんを亡くしたばかりで、
溺れるように苦しむ母たちと出会っているが
もっとも苦しいときを、共にいること
一緒に歩くことを、最優先で大事にしよう。
みんな、必ず、その先で
たくましくなれるから。