死にたいと、死ぬほどつらいは、違う気がする

2022/08/03

子どもとの別れは、

「つらい」の針を振り切った先で

間違いなく「たくましく」なる、と昨日書いたが

多く出会うお母さんたちと、自分と、

少し違うところがある、と感じた時期があった。

 

私は、「死にたい」と思ったことがない。

 

生きる意欲が高い、というわけではなく

死ぬほどつらい、と表現することはあっても

この「死ぬ」は、たとえの言葉で

「つらい」の最上級として使っている。

 

でも、出会った方たちのなかには

本気で、死ぬことを強く願った人が

そう少なくないのだ。

このあたり、個性の違いだろう。

 

私は、あゆみとの死別後に

どんなに辛いことが起きても

あの辛さに耐えた私が、これしきのことで死んだら

アカンやろ、と思え、

生き延びられたようにも思う。

 

では、本気で死にたい、と思っていた母たちが

なぜ死なずに、生き延びることができたのか?

知りたいと思っていた。

 

理由は1つではないことがわかってきたが

一番納得できたことは

「あの子が耐えたつらさを思えば」だ。

 

大人の患者さんなら

逃げることも考え、選択だってするような

つらい闘病に直面したお子さんたちが

どの子も、最後まで逃げていない。

 

誰のために?

もしかして親のため?

とさえ思えるようなお子さんもいる。

 

このことが、すごすぎて

私も相当な影響をうけた。

あゆみは、突然亡くなったので

個人的には経験がないのだけれど

実際には会ったことがない子が

人に影響を与え続けるって

すごいことだと、いつも思う。