「立ち直る」と「立ち上がる」は別のこと

2022/09/28

きょう、会の掲示板に書いたことだけど

いい本だな、と思った詩集がある。

一篇だけ収めた小さい本「さよならのあとで」

私はこの本の、「あとがき」も好き。

 

理由は、その筆者(出版社の社長さん?)は

当事者をよく理解している、と思えるから。

 

だれかの言葉や、匂いや、音や、光や、空気や、風や、
すべてのことが、その人の不在を静かに告げます。
私はもう二度と立ち直れないのではないか。
何度も、何度も、そう思います。

けれど、私たちは思い出すことができます。
その人のいた場所や、いつも座っていた椅子、読んでいた本、
ずっと履いていた靴、微笑み、くしゃみ、声、指の先。

その人がどれだけ私のことを愛してくれていたのか。

そのことに思いをはせたとき、
私たちは、再び、ゆっくりと
立ち上がることができるのだと思います。

           (あとがきから一部引用)

 

人が何を言ってくれたとしても、その言葉も含め

すべてが我が子の不在を告げるものであり

何によっても癒されようがなかった時期が

私にもあった。

 

それでも

嗚咽するように込み上げたのが、次の1行

その人がどれだけ私のことを愛してくれていたのか

 

申し訳ない思いに駆られながらも

きっと、そう

絶対に、そう、という確信があり

だからなおさら辛いのだけど、

でも、底を支えられた。

 

この文章の素晴らしいところは

「立ち直る」と「立ち上がる」を

分けて捉えているところ。

 

私は、いまも、

立ち直ってはいない。

でも

立ち上がっている、とは思う。

この会を創ってから。

 

「あとがき」のこと、まだ書きたいから

また明日。