救急は人の死に慣れていると思われてしまう

2023/09/11

一昨日、あゆみの治療にあたった医師には

死後に会わせてもらえなかったことを書いたが

あゆみと同じように救急からの死で

後日に会えなかったことを教えてくれる会員さんがいた。

 

その人の場合、

後日、挨拶したくて医師を訪ねたら

もう帰ったとのこと。

 

私は勝手に思った。

ほんとに帰ったのかなあ・・

中にいて、「帰ったと言って」と言ったか

「帰ったこにして会わないほうがいい」

と周囲に促されたことも考えられる。

どちらかというと言うと、

後者のような気がする。

 

救急では、見ず知らずの子の治療にあたり

保護者とも関係性がない。

それでも、患者を助けられないことは

医師にとって、ものすごくつらいことで

そのつらさを抱えて、次の日も診療にあたり

どうにか心の平衡を保って立っている

ということも考えられる。

 

そこへ、

子を亡くした親が訪ねて行って

泣かれてしまう。

悔やまれてしまう。

ただそれだけで

責められているように思うかもしれない。

 

本当に帰宅していたなら

翌日電話がかかってくるのではないだろうか。

電話なら、会うほどのことはないから

電話してほしかったなあ。

 

でなければ

親は勘違いしてしまう。

ああ、救命の現場は

人の死に慣れているんだなあ、

わが子の死も、日常の出来事の1つなんだ・・

 

実際は、そうではなくて

まったく逆で、

受け止めきれないほど、重く大きいこと

なのかもしれない。

だったら、その重さ大きさを

わずかでも、分かち合えないものだろうか。

共に残された者として。