祈っていますという言葉は後ろめたかった
2023/09/30昨日は、専門職の人に
専門性の限界を迎えたとき
そこから先を逃げないでほしい
とどまっていてほしい
と書いた。
これは専門職だけの問題ではなく
私だって、そう。
いつも非力で、無力だけれど
そこからでも役に立てることは
ないのだろうか、と考える。
なので、メールや手紙などで
この言葉を書かないようにしていた。
「祈っています」
なんか逃げ口上みたいな気がして。
おそらく、私の記憶のなかにある
「影ながら応援しています」と言われて
陰に身を隠されたみたいな気になった記憶か?
祈っています、などと言うのは
宗教者だけ言ってればよく
一般人は、、、、
何と言えばいいかなあ・・・
と言葉にはできないジレンマのようなものが
いつもあった。
ところが!
先日受けた研修で、
「祈りの効果」という研究結果を聞いた。
1986年に、カリフォルニア大学の心理学教授が
重篤な心疾患をもつ患者、約400人を
「祈られるグループ」と「祈られないグループ」に分けた。
(おおざっぱに書くから曖昧にしておくけれど)
そしたら、
その後の病状に差が生じた。たとえば、
前者は気管内挿管0人、後者は12人など。
私、この話を聞いて、
まあ、祈って貰っていると思うと、心強いしなあ、
と思った。それほど驚かなかった。
そうじゃなかった!
患者には知らせていなかったのだ。
自分が「祈られている」のか「祈られていない」のか。
えーーー
患者が心理的に反応したのではなく
祈りそのものが影響を与えていたという
「祈りの効果」だった。
これを聞いて、
「祈っています」と言うことに
うしろめたさなどいらないのかもしれない
と思うようになった。
もちろん、口だけでなく
本当に相手のことを、心から思い
祈っていてこそだけど。