たとえ1日でも生きることができた子どもは

2024/04/23

昨日書いた取材のこと

なぜ「小さないのち」には

流死産の人を含まないのか?

尋ねられた。

 

子どもを亡くした親

という立場において対等だと私は考えている。

けれども、

その同じ親でも、状況が異なりすぎる。

 

お腹の中だけで生き

亡くなって生まれてきた「わが子」と

生きて存在していた「わが子」では

その子のことを語る言葉は、違いすぎる。

 

たとえ1日でも、生きた子には

手厚い治療が行われた。

親は、治療上の選択や決定を背負った。

子どもの体温を知り、

共に過ごした時間があり

そのなかで与えられた思い出もあり、、、

 

だから愛しい。

だから苦しい。

 

一方、生まれたときには亡くなっていて

何もしてあげられなかった。

表情さえわからない。

 

「だから苦しい」

という言葉は同じでも

苦しさの中身の違いが、大きすぎる。

 

語るほどに、違う言葉が出てきて

どっちかが、どっちかに

遠慮もするかもしれない。

じゃあ思いのまま語れなくなる。

 

だから、

「わが子」という存在において同じ

といった無理な丸め方をするよりも

それぞれに活動があるほうがいい

と考えるに至ったのだった。