言葉で救えるすべはない認識

2024/06/17

つらい話、とりわけ死別のことが語られるとき

しっかりと、他人事にしないで聴くとすれば、

もし私だったら、どうだろう?

と自分に置き換えるものだと思う。

ところが

「私だったら」と返すと、よくないことになる。

例えば「私だったら生きていけないわ」のように。

 

このコミュニケーションの成り立ちが

私にはわかりにくいところがあって

こうも考えてみた。

 

体験者同士の対話の場合、

「私だったら」と返すことは少なく、

「私も」のほうが多いように思う。

「そうそう、わかる、私もそうだった」

といった具合に。

 

だから体験者と話すのがいい、と

遺族会に自助活動が多いことでもわかる。

でも、遺族同士でも、何ごとも同じなわけでなく、

経緯、背景、感情、考え方は、それぞれにある。

それでも、そう違和感なく語らえるのは

なぜだろう・・・。

 

やはり、当会でいえば

子どもを亡くしている

という前提によって、違いも受け入れやすい

ということだろうか・・・。

 

以前、聞いたことがある。

「私 ”だったら” というのは、仮定で架空」

 

いわゆる世間一般にもある

「体験のない人にはわからない」とか、

「体験したことのない人に言われたくない」

が持ち上がってくるのかもしれない。

 

あるいは、もしかしたら、

体験者同士は、言葉に配慮があるのかもしれない。

言い方や、言わないほうがいいことなど、

互いに、痛みを知る者どうし。

 

きっと、非体験者に限らず、

悲しみのさなかの体験者に

どんな言葉をかけるといいか?よりも、

どうしたって言葉で救えるすべはない

という認識をもっていることのほうが

対話は、しやすくなるように思える。