後悔しない遺族はやっぱりいない

2025/01/03

正月三が日の1月3日だけれど

もう打ち合わせが始まった。

HPSという人たちがいる。

ホスピタル・プレイ・スペシャリストという、

病児/障害児を「遊び」で支援する専門職。

 

この団体からワークショップの依頼があり

テーマは、「死について考える」。

一般的には避けて通りたい話題だろう。

でも、避けて通ってほしくないから

入念な打ち合わせを申し出た。

 

ワークショップでは、

参加者が実際に参加する時間が大事。

ゲストの発言は必要最小限にとどめたい。

そこで私は、要点を絞ることに。

 

ふつう自分の死は考えるだけでコワイだろう。

ところが子どもの遺族は、自分の死を怖がらない。

むしろ待ち望む。会えるから。

そう思う一方で耐え難い。子どもの死は。

この耐え難い死を、少しでも和らげる方法は

後悔の少ない死別だろう。

後悔しない遺族はいないのだけれど、

生前、どう子どもに関わってくれたか?

その影響は、かなり大きい。

なので、みなさん

闘病する子どもとどう関わっていくか

死が避けられない子どもとどう接するか

共に考えてほしい。

 

といった投げかけを、私からしますので

実際に臨床の場で活躍されている方が

具体的に発言おねがいします

といった打ち合わせを終えた。

 

そのあと、ネットを見ていて

「後悔のない遺族はいない」と先ほど言ったが

こういう後悔もあるのか・・・

と思い知らされる記事が目に飛び込んだ。

 

集団登校中の小学生12人が次々と撥ねられ

1人だけ亡くなった小2の男の子のお父さん。

事故の前日は休日で、

午前中、キャッチボールを楽しんだ。

お昼、お母さんが焼いたホットケーキを

おいしい、おいしいと食べたあと

午後も、「お父さん、キャッチボールしよう」

と言うのに、父は資格試験を控えており

「勉強するから、一人で遊んでおいで」

と言ったこと。冷たくしてしまった。

なんで無理してでも遊んであげなかったかと。

 

お父さんの行動の中に

事故に繋がる要因は、1ミリもない。

それでも親は、自分を責める。

 

午前中、時間を作ってあげた。

それでも、午後も作らなかったことを悔やむ。

 

どういう経緯で亡くなったとしても

後悔しない遺族は、やっぱりいない。