死別のつらさに基準も比較対象もない
2025/01/30冬はつらいから、スキーに行く。
は?なんの関係??
と思われるかもしれないが、
私のなかでは関連性があって、
雪山の頂上は清々しい。
あゆみのいるところに、ほんのちょっとだけ
近づける気がするから。
先日、凄惨な事件があった長野駅から、
一人バスに乗り志賀高原に向かっていると
隣の席の女性が「どちらまで?」
と声かけてくれた。
なんと降りるところもホテルも同じ。
自分と似た人はいるのだなあ、と思った。
ご主人が亡くなって、一人暮らしになり
スキーをするように。
ものすごく辛くて
必死で普通の暮らしが送れるように頑張り
そしたら、人から言われたのが
「あー、心配したけど元気そうね」だったため
笑顔を見せるしかなかった。
「つらい」と言えないまま1年ほども経つと
「もう今さら言えない」と感じた、と。
そうして行くようになったのがスキー
っていうの、いいじゃなーい。
と思っていたら、
「同じ身にならないとわからないのよね」
とつぶやかれ、
そうだそうだ、と心の中で同意。
「ご家族は?」ときかれたので
「二人暮らしです。ダンナと」と言った。
そしたら、沈黙・・・
じゃあ「わからない」の部類に入ってしまったか!?
長く乗るバスだし、
身の上話を聞かせてくれたので
私も話そうと思い、
「私は子どもを亡くしました」と言った。
今度は本格的な沈黙に・・・
言わないほうがよかっただろうか?
私の身に起きたことのほうが重いよ
みたいな考えは一切ないのだけれど
そのように受け取られてしまうかも。
いえいえ、
あなたが最愛のご主人を亡くされておつらいのは、
あなたにとっての最上級のつらさなのだから
私もつらい、あなたもつらい、
どちらもつらい
ということだと私は思う。
なんてこと、言葉にはできず
心のなかで思っていたけれど
「私は子どもを亡くしました」は
迷わず言えるときしか言わないことに
とも心のなかで思った。
迷わず言えるところ、私にはあるもん。
「つどい」とか。