私にとって、支えと糧は、別もの

2009/05/02

今年もグリーフケアについて学ぶ連続講座に行っている。
きょうは、グリーフケアとスピリチュアルケアについての講義だった。

図が出てきて、「わたし」を中心に置き、ぐるりを8つの項目が取り囲んでいる。
「わたし」は、何によって支えられているか?と、講師は受講者に問いかけた。

①人(家族や友人)
②過去(過去の自分や、これまでの人生)
③今(もう一人の自分)
④未来(未来の自分や、人生の課題)
⑤事(大事なものや、芸術)
⑥理(真理や思想)
⑦神(神仏や、超越者)
⑧祖(先祖や、亡くなった人)

私は、4回手を挙げた。
挙げたところは、①と②と④と⑥
1−家族や友人に支えられているところが大きいと、当然思っていた。
家族は少なく、友人も多いとはいえないが、それでいいと思う。
2−私は過去の自分を認めている。かなり肯定している。
無我夢中で耐え、忍んだ、けなげな自分がすぐに浮かぶ。
3−いま現在の自分はあんまり認めていないから、手が挙がらなかった。
もっと「わたし」に認めてもらえる自分にならないと!と思っている。
4−未来は、このままではないつもり。
きっと「わたし」に認めてもらえるようになるつもりだから、手が挙がった。
5−芸術も音楽も、遠いところのものに思う。
あゆみを失い腱鞘炎になるまでピアノを弾き続けた時期もあるけれど、
そこでは大したものは得られなかったように思う・・・。
6−人智を超えたものや、目には見えないちからの働きがあるように思うし、
拠りどころにしている。
7−ところが神仏に関心がもてないから、姑との確執がおさまらないのだ。

さいごの8で、
手が挙がらなかった・・・。

8は、自分より先に亡くなった人を示している。
私はご先祖様にはさほど精神的に支えられていないように思っている。
ところが、あゆみも含まれるとなると、愕然とした。
そして思った。

親は、子どもに支えられるよりも、
子どもの世話をしたり、子どもを守る
役割を与えられることより支えられるところが大きいように思う。
それにしても、あゆみとの繋がりが薄れたということだろうか・・・。

もう少し考えてみた。
あゆみは、いわゆる仏様になったときから、
もはや私が世話をやくとか、私が守るような相手ではなくなった。
この事実に対し私には反発があり、
いまだ認めたがらない私が、手を挙げることを拒んだのだろうか。

考えても、やっぱりよくわからないが、
薄情な自分を見たのだとしたら、とてもつらい。
周りでは、この8番に一番手が挙がっていたように思う。
手の挙がらない自分と向き合い、
でも私は!と思った。

2番でさっと手が挙がったよ。
2を埋め尽くしたのは、ほかでもないあゆみ。
2番がしっかりとあれば、自分は後ろめたさなく生きていけると思った。