いちばん深いところにある、人が生きる目的とは

2009/08/26

8月25日は何の日だと思いますか?
と尋ねたとしたら、え?? 何もない、ふつうの平日だよね、
という答えが返ってくると思う。

カレンダーでは何もないが、特別な日であって、
ある女の子(お姉さん)の「たんじょうび」という、とても大事な日だった。
この人は、いま心配停止状態だということなので、脳死なのだろうか・・・。
少し前に、親御さんからこのことを聞き、
私は、8月25日を無事に越えてほしいなー
と思っていた。そして越えた!
24歳のお誕生日を、家族はそっとお祝いされたことだろう。

この人は、生後間もなく、あゆみと同じような病気に見舞われ
命を取り留めた。しかし、重い後遺症を残した。
足も、手も、動かない寝たきりの状態で、
人は、何を感じ、考えるのだろう。
両親には分かるのかもしれないけれど、
他人にはまったくわからないと思う。

他人が考えることというと、
何のために、どういう理由で、生きているのか?
といったあたりだろう。
生きるためには、明確な目的があるほうが、生きやすい。
周り(外野)も、納得しやすい。

寝たきりで、意志表示のない人からは、
目に見えるような、生きる目的が感じられないのだけれど、
目的なしに生きる人は、私はいないと思う。
動けず何もできない状態で、生きている人は、
生きている、そのこと自体に、目的があるのではないだろうか。

もともと、「いのち」が生きる目的というのは、
こうすれば、こうして「もらえる」から、とか
こうすれば、こう「なれる」から、といった
条件つきのものではなく、
そんな駆け引きとは一線を画したところのことなのだ。

このお嬢さんが、生き続けた目的を
他人の、しかも会ったことのない私が推し量ることなど、できないが、
思えてならないことは、
この親と、一緒にいたい とか
この世がいいところだということを、感じていたい といった
精神的にふかーいところにある気がする。
この世がいいところだと思えなければ、
不自由だけを抱えて生存する筋合いなど、ないのだから。

「この世はいいところだ」
これは、人が生まれて間もないころに獲得する発達だといわれている。
どの子にも、そう認めてもらえるような自覚と、努力を、
社会は、私たちは、してきたのだろうか、という問いに、
重い病気の子どもや、重い障がいをもつ子どもと接するとき、いつも、
特に迫られる。

(では、生き続けなかったあゆみにとっては
この世がいいところではなかったのか?
そうではないと、やっと最近、思えるようになってきた。つづく)