臓器移植は、誰のためより自分のために受けるのがいいと思う

2009/10/09

このところ、新型インフルエンザの取材がつづき
心がちょっと疲れているみたい。
以前は、テレビが来ると、病気のこと、あゆみのことを
一所懸命話していたのに、もう本当に、そういう気力が持ち上がってこない。
でも紹介者との関連で、断れない・・・。

そんななか、偶然テレビで、続けて、病気体験者の生の声を耳にした。
一人は、難病のお子さんが海外で脳死移植を受け、
手術は成功したものの、見送られた親御さん。
もう一人は、小さいころに発症した小児がんを克服し、
のちに結婚して、元気な子どもを出産できた、元患者さん。
どちらも、大変な思いをされた当事者だ。
体験の全容には胸を打ち、敬服するのだけれど、
言葉の一部が、ひっかかってしまった。

一人目のかたは
脳死移植を受けさせるため、親が子に、移植の説明をする場面でのこと。
実際の言葉は記憶できなかったが、
「あなたが生きることは、亡くなってしまう子に替わって生きてあげること」
と言っているように、聞きとれた。
ドナーの家族の中には、そう考えて臓器提供を申し出る人は、いると思う。
けれども、そうではなく、移植でしか助からない子どもを助けてあげたい
ただその思いから、提供する家族もいるかもしれない。
その場合、別の子の命のために、わが子との別れを早めて。
だとすると、「もらうことで替わりに生きてあげられる」は、
もらう側の思い込みであり、思い違いでもある。
さらにそこに、善意や正義のようなものまで帯びては、
どうなのだろう・・・。

もう一人のかたは、
小児がんの治療で放射線治療を受けた子どもが、大人になってから、
無事に子どもを出産できることは、どれほどの幸せか、知れない。
ただ、それは本人とその家族にとっての最高の喜びなのだと思う。
病気を克服することができなかった病友たちのために、がんばった。
といった志や、
病友のご遺族にも、朗報を届けることができた、という達成感のようなものに、
私は、少し胸が痛んだ。
私がそういう遺族の立場だったら、心から喜べるだろうか。
実際、亡くなった病友のご遺族は、とても喜んでくれたという。
痛む私の胸は、縮む思いがした。
私も、そう知らされたら、振舞うことはできるのかもしれないが・・・

どちらの人にも、共感ができないまま
自分はいったい何を期待しているのか、と考えてみると
命が助かる、命を授かる、というような大事なことは、
まず、もっと、自分のこととして、しっかりと感じて
相当に感謝してほしいのだと思う。
そのことが、他人のためにもなることであっても、
そう本人の口から言うことではないように思えた。

と、私は、テレビに出ているご本人たちを、批判的に見た
というのでは、まったくない。
そう映し出し、そう伝えてしまう、「テレビ」というものに
がっかりしてしまった、ということ。

という我が家にも、昨日もテレビが来た。
明日も、テレビが来る・・・。
もうほんとうに、おわりにしたい。