人を「わかる」ずっと手前にあるのが、否定をしないことだと思う
2009/12/30 人の言葉に、引っかかりを感じたり、
引っかかるだけでなく、カチンと来てしまうとき、
だからといって、反論するだけの筋道もつけられず
しだいに気分がしぼむ。
ということが、私の日常に、しばしばあり、
そのたび、ここでこうして文章にしながら、内観するのだけれど、
なぜ、自分はこうなんだろう・・・。
先の紙芝居講座でも、何人もの人から、
すごくよかったよね!と、半ば興奮気味に共感を求められ
「ええ」と曖昧な返事を返した。
確かによかったことはたくさんあり、ためになった。
ただ、ほかの人は、なにも、どこにも、引っかかったりしない場所で、
自分だけが、別の境地に立っていた時間が、何十分間もあった、そのことに、
多くの人と、私は、どこか「ちがう」・・・
と、また引っかかっている。
あの日引っかかったのは、
「あの人たち(街頭紙芝居)と、私たちは、違います」
と言われた点と
「最後に死ぬようなストーリーではなく、もっと希望がもてる作品を子どもには見せるべき」
と言われた2点だけで、ほかの話は、すべてよかった。
これらの点と、これまでの記憶をたどり、
ようやく共通点が見えてきた。
それは、「否定」だと気づく。
なぜ私は、人の否定に、過敏に反応するのだろう。
まだ不明瞭なのだけれど、おぼろげに感じるのは、
私の場合、子どもを失うという体験を通し、
かなり、きつく、自分を否定する時期を経たと思う。
「護れなかった」という点において。
幼い子どもの親は、子ども本人が身を守る術をもたないため
無条件に、子を守る使命をもつのだと思う。
その子の身に降りかかったのが、病気であろうと、事故であろうと、
護れなかった思いに、ほとんど差はないように思う。
いや、幼い子どもの親だけではないかもしれない。
子どもの年齢に関わらず、親というのは、
「自分が護る」といった意識を、
組み込んでしまっている生き物のように、思う。
護れなかった体験、役に立たなかった体験は、深い傷を残す。
傷心を、かばい、かばい、暮らしてきた私にとって、
誰かが、人をきっぱり否定する(あるいはされる)ような場に居合わせるとき
冷静ではいられないのだと、思う。
人が皆「同じ」であることを、望んでいるのではない。
違って、いいと思う。
ただ、違うものを、否定し拒絶しないでほしい。
存在を認めるということは、理解に努めることばかりでなく
違いは、違いとして知ったうえで、そこを否定しないことだと、思う。
「わかり合う」などというのは、この、もっと先にあるのではないだろうか。