もらって辛い手紙

2018/09/04

前回のつづき

「それって、もらいたいたいだろうか?」
と、ある中学生が考えこんだ手紙とは
今もらうには、負担になる手紙
だったかもしれないし
この内容だと負担 
ということだったのかもしれない。

私自身
今もらいたい と思っていたときに
この内容は もらいたくなかった
という手紙がある。

深い悲しみに、身を沈めていたときだった。
手紙をくれたのは、昔の同級生。
わかり合える(と思いこんでいた)相手。

「いつまでも悲しみに暮れることを
あゆみちゃんは、決して望んでいないよ」

目を通して
わかり合えるはずだった友を
失ってしまった。

そんなこと、わざわざ言わなくても
人は、みな、
立ち上がる時期は、自分で選ぶよ。

私は、ぜったいに言わない。
**ちゃんの意思を見越したようなこと。
お父さんお母さんを飛び越えて、判ったようなこと。

親は、みんな
死んでもわが子が一番大事で
死んでも、なお守ろうとしたりしていて
でも、死んでしまったら、親なのに、わが子なのに
わからないことだらけで、苦しくて、苦しくて。

そんな中を
「あゆみちゃんは望んでいない」って
断言する?
あなた、誰??

知人が言った
その手紙「もらいたいだろうか?」の一言が
心の片隅にぶらさがったままの、辛い記憶に絡まり
舞挙げてしまったんだなあ。

にもかかわらず
平然の目の前の人の話を聞き
平然と自分の内側を見つめていた。

このような変化のことを
成長した と言うのだろうか
諦めている と言うのだろうか
もう疲れた と言うのだろうか