幸せと悲しみが隣り合わせるとき
2018/09/08 北海道の震災が起きた9月6日や、 
東日本大震災が起きた3月11日には、 
亡くなった人がいる一方で、生まれた命がある。 
そのことで、 
だからと言って、何年にもわたり 
公に喪に服すのいかがなもの? 
という意見を耳にした。 
こうした日に生まれた子にとっては、 
盛大に祝ってもらいにくい日になるから 
という発想らしいが、どうなんだろう? 
これは第三者の、行き過ぎた思いやり 
のように私には思える。 
子どもの誕生日が、どういう日と重なっていても 
その人なりの祝い方と、おめでとう!を、きっとしている。 
仮に、ひっそりと静かにしていたとしても 
内面は、喜びと感謝に溢れているだろう。 
きっと幸せな人は、そのあたり、カタチにこだわらないと思う。 
幸せだから。 
そう思うようになったのは、 
亡くなった子を連れて病院を退院するとき 
多くの当事者がつぶやいたことに端を発している。 
  何で、帰るときは裏口なんだろ? 
  何も悪い事はしていないのに 
  すごく、すごく、がんばったのに 
  見た人を不安にさせるからかな…? 
ほとんどの患者は、治っていき 
治らないにしても、普通の生活を取り戻し、 
幸せになって、エネルギーを蓄えていく。 
その人たちに、悲しみに打ちひしがれている人が、 
遠慮して行動するみたいな構図。 
「裏口から退院していくとき、ちょうど、 
ゴミ収集車がゴミを回収していて、 
ふさがった通路の、隅を通って出ていきました」 
やるせない思いを、つい先日聞いたばかり。
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