自分に「向いている」ことを再確認

2020/11/25

参加した研修で、「喪失」の図を書いた。

当会でも、子どもとの死別を図で示すワークをするが

今回受けた研修は、生きてきた中での喪失。

当然私の場合は、子どもの死がズドンと落ちるときだ。

 

中央に横棒を引くことから始めた。

この線が「普通ライン」。

普通ライン辺りをうろうろしているのが、穏やかなイメージ。

ところが、私は小学校を卒業する頃から

どんどん落ちていく。

 

線に沿って出来事と感情を書く。

中学生時代 学校イヤ 行きたくない

高校時代 学校イヤ 行きたくない

受験に失敗し浪人 ミジメ

合格できたがすぐ落ちこぼれ もうしたいことがワカラナイ

 

このあとぐんぐん上がる。

就職に失敗 自由業になる 楽しい!

結婚 家を出ることができた! さらに自由になってのびのび

 

このあと一番下まで落ちる。

子どもの死 なんで!!!

(紙をはみ出してテーブルに書きそうになった)

遺族会を始める 向いている ずっとしていたい

 

書いてみて分かった。

生きてきたなかで、

「向いている」と思えたことは、

遺族会「だけ」だ。

 

で、ここで急上昇するのか?というと

そのようには描いていない。

中央にある「普通ライン」の、少しだけ下で横ばい。

なぜなら、遺族会は、

悲しみに打ちひしがれた人と出会うところだから。

 

語られる話は、悲しい話であり

語ることには苦しみも伴う。

私自身はその話を聴くことが好きだといえども

高いところを行くのではない感覚が

自分のなかに常にあるのだなあと、

線を描きながら気づいた。

 

そう。

「普通」を行くこと自体が、非常に幸せなことであり、

それより、ちょっと低空を行くのだって、いい。

ある意味「普通」は、「一般」を意識しているのかもしれない。

 

昨日出席していた会合で

なぜ遺族の話を聴くのが好きなんですか?

と尋ねられた。

即答できる。

 

亡くなってもなお子どもへの愛を育む話だから。

「私にはもったいないような子でした」

と語られる言葉が、愛に満ちているから。