もう1つのコロナが収まってほしい理由

2020/04/04

あゆみが亡くなったあと、

私は、何に苦しんでいるのか、わからなくなった時期がある。

 

あゆみが亡くなって、いなくなってしまったから

というのは自明の事実であるが

あゆみに、十分な治療を受けさせることができなかった

という医療の質にも、大きくあった。

発症前に、自分のとった行動に対する自責も大きかった。

 

それらに加え、

突然妹を失ったダイキが、一時おかしくなったこと。

そのダイキの世話が、ちゃんとできないこと。

子どもの心のケアに必要な、日常が保てることや、楽しく遊べることなど

私にとっては容易でなく、

そんな私に、周囲がドバドバ正論を向けてきて

ダイキが重荷になってゆき

もう泥沼のようだった。

 

子どもを亡くして、子どもがどれほど大事であるか

身に染みて、思い知っている自分が、

目の前の、生きている子が、しんどい・・・

 

やはり、あれは、正常ではなかったのかな?

いや、これこそ正常な反応と言えるのではないかな?

 

だから私は、

遺族のどんな本音も、ぜったいに批判的に聴かない。

正常なのか、異常なのか、正しいのか、間違っているのか、

そういう線引きではない次元を生きているのだと思う。

最愛のわが子を、この手から奪われ、なお生き続けるということは。

 

現在「コロナ」で、閉塞的な生活を余儀なくされて

特に、お子さんを亡くされて日の浅い方たち、

長時間家にいるお子さんを、重荷に感じる方も

おられるのではないかと思う。

 

いろんな意味で、早くコロナが収まってくれれば、

と思う。