つらかったあの日から11年を経て、再び訪ねた場所。

2009/09/14

子どもが最期を迎えた病院に
もう一度行ってみたい。と思う親と、
二度と行きたくない。と思う親に、考えは分かれる。
どちらも、その理由には、子どもへの愛情の深さや、切ない思いがある。

私は、前者だったように思う。
つらいのだけれど、行けば何か見つかるような気がし、
でも、もうそこにあゆみ本人はいないのだから、
見つかるといっても、具体的な何か、ではなく
自分のなかの何か、だったように思う。

とはいえ、用事がなければ、行くこともない。
そうして10年以上が過ぎ、行く用ができた。舞い降りてきた。
医学部の講義というかたちで。

前の晩は、眠れなかった。
朝早く家を出て、時間があったので、
あゆみと一緒に乗った救急車が到着した場所に行ってみた。
当時新築だった救命救急センターは、まだ新しい感じで、きれいだった。
これが古びていたら、ショックだったと思う。

最後の角を曲がってから、救急車はだいぶん走ったように思ったけれど
それほど長い道ではなかった。
はやる気持ちが、距離を長く感じさせていたことが、わかる。
あの日の未明、この歩道に、
救命のスタッフが、何人も出て、立って待っててくれたのだと思うと
胸が熱くなったが、涙は出なかった。

講義室に行くと、ほぼ全員が出席してくれていた。
ちょっとこわかったのは、
どの程度聞いてくれるかだったが、
みんな、非常によく聞いてくれた。

私は、ここで言うべきか、言わざるべきか、まだ迷っていた。
患者と医療者の、コミュニケーションにおける問題
それを補うために、どんな工夫と努力が必要か
といった、一般論など話しながら、
私自身の医療体験をいろいろと話し、そして、言った。

「この話は今までに、おそらく100回以上、
いろんなところで話してきましたが、
あゆみの治療にあたってくれ、そして最期を看取ってくれた病院とは
この大学の病院です」
そう話したとき、学生はとても驚いた表情を見せた。

「一番話したかったのは、皆さんにでした。
ここに来ることができて、よかったと思います。
聞いてくれてありがとう」。
お礼を言ったとき、少し涙が出た。

つらい涙というより、
期待の表れだったようにも思うし、
また一つのことが終わってしまった。終えてしまった。
という切なさだったようにも、思う。
充実感とか、達成感のような、そんな誇らしげなものではなく、
ため息にも似たような感覚・・・。
今後への期待に伴うものだったのだとしたら、
やはり、取り残され感なのだろう。
そして、大学2年生の彼らが当時小学3年生だったことに気づき
時の流れと、すっかり年をとった自分に
圧倒されてしまったのかも知れない。