しあわせって何だろう?
2005/04/03 私は、「気づいていること」だと思う。
いのちの授業に行くと、たいていこれに触れます。
こわいように死を語るのですが、最後に、「私は今しあわせです」と言います。
あゆみを、やっとの思いで産み、この腕に抱くことができたとき
夢が本物になりました。もうなんにもいらないと思いました。
どこに向かって、どれくらいお礼を言ったらいいのか、わからないくらいの喜びでした。
それなのにいつしか私は、
産まれてくれたこと、毎日目の前にいること、そういう暮らしがあることが
当たり前になっていました。
共働きの身には重荷であるかの愚痴までこぼしていました。
「ちょっとしかお昼寝してくれないの? 用事片付かないなぁ もー」
いなくなってしまったとき、
自分の心掛けの悪さが招いた結果ではないかと思えました。
自分が言った言葉は覚えています。呑み込んでも遅いと思いました。
ずっと眠ってしまうようなこと、私、言いました…。
こんな日が来るのなら、
毎日「ありがとう」って抱きしめればよかった。
毎日を寸分もおろそかにせず味わえばよかった。
後悔し続け、これほどの不幸はないと嘆き続けました。
子どもを亡くすということは、悲しい悲しいことです。
でも「不幸」と言うには違うかもしれない。
自分にまだ与えられているものがあることを見失い
私は自分が作り上げた不幸の上で騒いでいたことに、ずっとあとで気づきます。
がんになったとき、健康に恵まれていたことをそれまで考えもしなかった
と気づきました。
子どもを亡くして、いてくれることの大きさを知り
病気になって、元気に過ごせることの大きさを知り
なんで私はいっつもあとなんだろう…。
ここでいま気づかないと、私は一生幸せを知らないまま終わってしまう。
だから、「私は今しあわせです」。
いま自分がもっているものにちゃんと気づいているから。
PS.
この「しあわせって何だろう?」には続編があります。のちほど。