奇跡のような最初の出会い

2019/01/24

前々回、恭ちゃんのことを書いたので
もっと振り返ってみようと思う。

恭ちゃんのお母さんとの出会いは、
まさに奇跡だった。
(奇跡が起きるまでの話は、長いですよ~)

私は、あゆみを亡くしたあと
同じような境遇の人は周りになく
孤独に過ごしていた。

病院に遺族会はないか?
なければ、遺族を紹介してもらえないか?
治療にあたってくれた医師に尋ねたら、
ないし、紹介も断られた。

けれども医師は、
ただ断っただけでなく、ある公的組織を紹介してくれた。
その組織では、結局、私の希望はかなわなかったが
「問い合わせる」ということを知った私は
あちこち、問い合わせまくってみた。

そうして、ようやく、1つの遺族会に行き着いた。
「子どもを亡くした」というくくりであった。
期待を胸に、出かけていくが
まったく境遇の異なる遺族が集まっていた。

年齢が大きく
病気よりも、事件・事故・自死の人のほうが多かった。
幼児の親は、ほかに1人もいなかった…

帰り道、とぼとぼと歩いていたら
参加していた一人のお母さんが、声をかけてくれた。

「同じような立場の人、きっといるから
手紙を書きませんか」

すぐには意味がわからなかった。
そんな夢みたいな話、と思ったが
その人の言うとおりにした。

会いたい思いと、自分の住所・電話番号を書いた手紙を
二重封筒にして、そのお母さん宛てに送った。
京都のかただった。

いったい私の送った手紙は、どうなるのだろう?
どのように出会うことができるのだろう?

春が過ぎ、夏が来ても
一向に音沙汰がない。

そうして、夏も終わろうとしていた夜。
自宅の電話がなった。

「いま、お手紙見ました!
こんな時間にすみません。すぐお話ししたくて」
と言ってくれたのだ。

顔の見えない
どこの誰かもわからない相手に
私は、ワーっと大泣きした。

手紙は、どのようにして届いたのか
ずっと不明だったが、
だんだんわかってきた。

京都のお母さんは、私の手紙に、さらに手紙を添えて
遺族会に送ってくれていた。
該当者がいない遺族会は、ほかの遺族会に転送してくれていた。
そうした転送が
恭ちゃんのお母さんの所在を知る人がいるところまで
繰り返されていたのだ。

途中で、転送が止まっていたら、この出会いはなかった。
遺族会同士は、繋がりがあるわけではない。
おそらく、同様の活動をしているところを、探して
送られてきた手紙を、送り出してくれていたのだろう。
インターネットも、メールも、まだ普及していない時代だ。

探してあげよう
力になってあげよう
という、強い思いがなければ、
きっと私の手紙は、路頭に迷っていたと思う。

人の善意ってすごい。
無償の思いって、尊い…
どなたにも、直接お礼は言えていないのだもの。

こうして、同じ病気で、同じ時期に亡くなっている
3才違いの男の子のお母さんと出会わせていただいた
この感謝を胸に
会員わずか2名の会を立ち上げて
今年、「小さないのち」は、20周年を迎えた。