親がコワイのか私だけコワイのか
2021/04/09ある番組で、
交通事故で重度障害者となった大学生の話を聞いた。
お話しの中に、発見が1つ、不思議が1つあった。
発見したのは、私がちょっと知りたかったこと。
彼は、一生車いす生活になっているので、重症を負った。
事故で痛さは感じなかったと言う。
そして、意識が遠のいていくとき
「気持ちいい感覚」だったそうだ。
私が「ちょっと知りたかったこと」は
あゆみは、意識をなくす頃、苦しくなかったかどうか。
苦しくなかったと思いたい。
ところが、気持ちいい感覚、と聞いて
人間、そういうふうにできているのかな、と
少しほっとした。
不思議だったことというのは、
同乗者に対する気持ち。
友人が運転する車に、友人たちと乗っていた。
で、自分の怪我のことより先に言ったのが
友人たちが軽傷だったことが良かった、ということ。
笑みをたたえて。
え?その事故で君だけが重症だった?
自然と出た笑みは
紛れもない本音を示している。
このとき私の中で、見える角度が変わった。
何で私の子だけが・・・に。
不条理感にとどまらない怒りのような感情が
運転者に対してはもちろん
軽傷におさまった同乗者にさえも
溢れて出てしまう気がする。
すべて想像だけれど
親という存在、そうであっても不思議はなく
だから
彼本人の言葉のほうに「不思議」を覚えたのだ。
親って、愛だけでなく
魔物も隠し持つ
コワイ生き物に思えるときがある。