友人知人と家族の悲しみは違うだろう

2021/10/20

仕事で同席していた人が、休憩時間に

着信があったことに気付き、電話をかけた。

横にいたため、内容がわかってしまった。

 

彼女、えっ、となり

どなたかが、亡くなられたことを知る。

黙ってじっと聴いているので

知らない人のことでも私は有り難く思った。

 

経緯などを

詳細に話すべき相手だから話すのだろうし、

話したい相手だから、話すのかもしれない。

 

けれども、途中から

ああ、、、と思った。

話の流れが変わったから。

それは、「でも」から始まる。

 

「でも、お孫さんの顔が見れて

良かったでよね。

娘さんも親孝行ができて

良かったですよ。」

 

でたーー

亡くなるなりの「良かった」

 

こういう良かったは、ご主人やご家族が

自ら口にするか、時間をかけて見出すか

に限ると思う。

 

すると、そのご主人は言った(ようだ)。

おそらくは、こう。

「いやー、孫というのは顔見ただけでは、、、

かまいたかったと思います。

一緒に遊んでみたかったと思います。

そんなことを、本人言ってましたから」

 

よく言った!!

亡くなった人の気持ちは、

もっとも近い人の想像が2番、

ご本人が残した言葉が1番。

これに勝るものはない。

 

このご主人にとって、奥さんの死に、

良かったことは、まだ何も見いだせていない

ということ。

当然だよ。

 

なんで訃報に対し、

他人はすぐにそう出るかなあ。

自分も友人知人として、つらいから

というがあるだろけれど

だったら、なおさら、

自分の口から出る感情に

注意を払ったほうがいいと思った。