私が宗教に属せば子どもは死ななかったか

2022/08/19

昨日は、感激しながら書いたが、

当の本人の私は、どの宗教にも属していないくせに

あちこちでアタマを打ってきた。

よく考えたら、

あゆみが亡くなって路頭に迷ったわけでなく

もともとなのだ。

 

根幹にかかわるところが、あゆみの命名だ。

宗教家にお願いしている。というのも、

30代半ばにして、やっと巡り合えた子。

切迫流産・切迫早産をかいくぐって生まれてきている。

無事に生まれたからには、失ってなるものか。

命名、どうしよう・・・

その知識がない私は、知人の勧めで、

とある宗教者のご自宅を訪ねた。

 

つけていただいた名前が、あゆみ。

歩み続けることのできる名前。

 

あゆみは小さく生まれたが、この名のごとく

すくすく育ち、いっぱい食べて、健康で、賢くて、

1才を迎えたとき、その先生にお礼にも行った。

 

ところが、それからしばらくして

熱を出した日に意識を失い、救急搬送。

命名した先生に病院から電話し、窮地を訴えた。

そしたら、返ってきた言葉は

 

「あなた、入信しなかったから」

 

固まったままになった。

あのとき私がその宗教に入信していたら

こんなことにはならなかったのか?

ただ、これ以上の後悔を引き寄せる余力はなく

あとで考えようと、棚上げした。

 

棚に上げたものは、置かれているものが見えていて

いつか向き合わざるを得ない。

向き合ったとき、私は思った。

 

よく耳にすることとして

宗教に属し、信仰していることで

「大難は小難に、小難は無難になる」という。

 

無信心のわが家では

いきなり「大難」に直撃された。

じゃあ

親が宗教に属している家では

子どもは死んでいないのだろうか?

そんなことはないはずだ。

きっと、亡くしている人はいるはず。

 

そういう親御さんは、

私以上に、なぜ?という思いは強いのかなあ。

いや、逆に

信仰心から、受け容れが優れているのかなあ。

 

会えれば聞いてみたいと思ったものの

身近にいなかったので

聞く機会はないまま

私は自分で自分のことを考えるようになった。

昨日書いたように「想像」から広げていった。