「話してもきっと理解されない」から

2025/08/06

8月6日は広島に原爆が投下された日。

80年前のきょうのこと。

ニュースで、高齢の男性が

被爆体験を語る姿が映し出された。

 

あ!この方を写真で見たことがある。

お兄ちゃんにおぶられた男の子。

頭と顔に包帯が巻かれていた。

 

その怪我はとても深いもので

現在も、大きな傷がそのまま顔に。

広島から転居後はいじめられたそう。

そのことを語るとき、涙声に・・

 

驚くことに

写真の子が自分であることを明かしたのは

3年前、80才になってからだった。

差別を恐れて、ではない。

 

理由には、私でも共感できた。

戦争のことも、被爆のことも

私の想像を遥かに超えるものだが

この方の言う「語る」ことの葛藤は

私にもあるから。

 

「話しても理解してもらえない

という思いがどこかにあった」

というのは、つらいこと。

 

「わかる」というのとは別に

しっかりと聴いてくれるかどうかだ。

でもそれは、

話してみなければ、わからない。

 

常々話す立場にある私自身も、

話してよかった。聴いてもらってよかった

という経験ばかりでない。

 

話さなければよかった、という経験

いろんな意味で、ある。

 

だから話さなくなった

という人も知っている。

同じ立場の人にしか話さない

という人も、多くいる。