どんな私も「あり」でいてくれる心の友
2021/04/18昨日の小児科学会でご一緒した看護師さんは
偶然にも、私の大好きな華ちゃんと親しい。
華ちゃんは、病気と共に果敢に生き
最期は、延命治療を選ばなかったお子さん。
自分らしい生き方を、懸命に追い求めた女の子だった。
私は、華ちゃんの、大人に対する懐の深さや
年齢を超えた精神性に惹かれている。
華ちゃんとは、亡くなってから出会っているので
生前をよく知る人と話すとき
華ちゃんの人となりをさらに知ることができ、嬉しい。
嬉しかったので、きょうお母さんに電話した。
お母さんも、すごく喜んでくれた。
その中で、1つ申し訳ないことを言ったような気がし
いま考えている。
お母さんは「笑顔で過ごすようにしている」と仰った。
「でなければ、娘が戻って来るところがなくなるから」と。
私、言ってしまった・・・
「私は、華ちゃんは、笑っていてほしいとか
誰にも求めていない気がする。
私にとっての華ちゃんは、ダメなときも、醜い私でも
変わらずいてくれる気がする」と・・・
きょう、すごく嫌なことがあったから。
3/29の日記にも書いたが、町内会の引継ぎで
例の「くそババア」が、また問題を起こし、
何でか、私が町会長から叱られた。
このくそババアが!と思う私にも
華ちゃんは、「ありだよ~」とほほ笑んでくれる
(思い込みがあって、私は腐らずやっていける)
わが子のこと、一番わかっている親よりも
わかったようなことを言うもんじゃない!
というのが私の信念なのに・・・
でも、また思った。
華ちゃんは、私の華ちゃんでもある。
お母さんにとっての華ちゃんがいて
私にとっての華ちゃんもいて
いいのかも。