やっと「なに言ってんだ?」と言われなくなった

2022/04/20

今回の、小児科学会での論点の中心は

子どもの死のなかでも、とりわけ突然の死で

家族にどう対応するか?だった。

 

闘病や入院があった子どもは

子ども自身が、医療スタッフと関わりをもっている。

意識があれば、どんなに小さくても会話があるし

調子がいいときには、遊んでもらうことさえある。

 

意識がなかったり

ものが言えない子どもであれば

そうした関わりはなくても

よくしてもらっている場面を、親は見ている。

 

ところが、

突然病気を発症し、知らない病院に搬送され

親は子どもから離され

瞬く間に亡くなると

何が起きたかのかさえ、わからないまま、

子どもがいなくなってしまった・・・

ということになっている。

 

医療スタッフは、

命を救うことに必死になっているから

家族が置き去りになっても仕方がない

という時代に私などは直面しているが

このところ、そういう状況でも、家族への対応が

検討されるようになった。

 

知らない病院で、初対面の医療スタッフと

どうすれば早期に信頼を築けるか?

急激に悪化する子どもの病態を

どうすれば、親は理解ができるのか?

 

私は、「見る機会」を要望してきた。

親はずっと別室に置かれ、「だめでした」では

理解がむずかしい。

 

皆さんが、全力で子どもを助けようとしている

姿、様子、場を、少しでも、

親は目にし、知ったほうがいい

という提案を、20年前からしてきたが

20年前には、

「なに言ってんだ?!」

という反応だった。

 

でも、そういう病院が増えつつある。

 

医療側には、処置の場面を、見せるか見せないか

判断や選択肢があるように

親の側にも、「見ない」選択はあるので

見るのは怖い、と感じる親には見せないほうがいい。

ただ、多くの親が、「子どものそばに行きたい」

と考えている。

 

それを叶えるのも、同等の配慮だと思う。

そばに行って何をしたいのか?

 

子どもの手を握る

声をかける

(ママいるからね、大丈夫だよ!とか、がんばって!とか)

治療者に直接お願いする

(よろしくお願いしますとか、助けてください!!とか)

 

そばに行って、そういうことを、することに

何の意味があるのか?

 

私は、大きな意味があると思う。

親にできることは、

それしかないのだから。

 

まだ生きている間に

子どもに届く言葉が

この時を逃したら、ないかもしれないのだから。