まだ考えていた「産む」と「生まれる」、鶏とひよこに行き着く。
2009/10/04 きょうは授業が早く終わったので、恩師を訪ねた。
それで、前回のはなし
「生まれる」は、「産む」の受動態だと最近知ったが
「産む」のほうも、実際は受身のように思えてならないことについて、
相談した。
つまり、産むことも、生まれることも、
どちらか一方の努力だけで実現することではないので
共に受身の行動なのではないか?ということ。
恩師は、「啐啄(そったく)だ」と言った。
啐啄の語源は、ひながかえるとき(ふか)の様子からきているらしい。
ひなが内側からつつくのを「啐」と言い
母鳥が外からつつくのを「啄」と言うところから。
そうかー、哺乳類ではない鳥類は、
母鳥がひなどりを産みだすことはないけれど
卵がかえるとき、やはり母は外から助け、協働しているのだ。
教育が「啐啄」だとも教えてくれた。
教えることと、学ぶことが、同時に響き合っていなければ意味を成さず
教える者と、学ぶ者の、協働によるものであること、として。
ほんとだ、と思った。
いいこと聞いた。と思いながらの帰り道、
また1つ思った。
子どもが生まれた後、このことを母本人が人に話すとき、
「私、子どもを産んだの」と言うよりも、
「私、子どもが生まれたの」と、言うように思う。
正確には「私から子どもが生まれたの」だが、
そんな言い方したらオカシイ。
ごく自然に、
自分と子ども、主語を2つとも入れて話していることに気づく。
主役が2人であること、無意識のうちに理解しているのだ。