死んでからも守りたい

2015/03/26

今月は、オウム真理教地下鉄サリン事件から
ちょうど20年の節目にあたる年であることから
特集番組などをよく目にする。

そのなかで、一人の死刑囚のお母さんの言葉に
胸が熱くなった。
死刑囚は、当初は若い医師だった。
医師免許を得た時、お母さん、嬉しかっただろう。
ところが、そんな賢い頭で、道を誤っていく。

現在の心境を尋ねられたお母さんは、
息子の死刑が執行されるときを、ただ待つしかないなか
こう言った。
「同じ骨壺に入りたい
一緒にいて
もう悪いことをしないように守りたい」

ああ、こういう親のもとで育って
それでも外れるときは、外れていくのだとおもった。

私が、子どもを亡くした親について執筆をするとき、
よく引用する一文がある。
その文章とよく似ているのを感じた。

「ウィース(1993,2000)は、親の悲嘆には、しばしば
亡くした子どもを守りたいという強い願望を伴う。」

ほとんどの場合は、病気なので、こう続く。
「たとえ、子どもの死が
まったく自分たちの過失によるものでなかったとしても
親は子どもを守りたいという要求をもつ」。

これは、生きている子に対する思いを描いているのではない。
生きている子に対してなら、
「代われるものなら代わりたい」
と表現されるのかもしれない。

生きているうちは、もちろんのこと
亡くなっても、なお、思いはつのり
子を守りたい親の思いに、生と死の境目はなく、
どこまでもずっと続くのだとおもう。