収めずおくことが大事に思えること

2020/06/19

「コロナ」が広がって以来、初めて新幹線に乗った。

初めての遠出。

きょうが中止にならないことを、ずっと願ってた。

日を決めたときは、まだコロナでこんなことになる前だった。

遠距離移動が解禁となる日にあたるというのも、

やはり縁があるからだろう。

 

15年になりますか?

と言ってもらった。

 

そう。年に一度、あゆみのこと、自分のことを、

語らせてもらいに行っている。

先日、体験談は自分のために語る、と書いたが、

そう思って毎年ここに来ている。

医療にたずさわる方たちなので、できるだけ当時のことを

その時の私が語るように、と心がけるが、

変化していると思う。仕方のないこと。

ただ、次のことは、きよう初めて言った。

 

体験に価値を付けるのは、本人に限ること。

 

あゆみが亡くなり、私は苦しみ、だからこそ

多くの出会いがあり、いろんなことを教えてもらえた。

のちに私は病気になり、

今度は体ごと苦しみ、だからこそ

多くのことを学び取ることができた。

病気から得たものは大きいと思っている。

でも、あゆみの死から得たものが大きいかのように

私は言ったことがない。

有っても、そう言いたくないかいから。

 

だからよかった

 

という結論にもっていきたい傾向が、

あらゆる場面にあり、そうすることで納まりどころがいいい、

というものなのだろうけど、

収まりどころよくないままにしておくことが

大事に思えることがある。

 

そのあたりは、他者が言葉を先取りせず、

本人の扱いに委ねるのがいいと思う。