どんな時も どんな自分も

2021/06/13

(一昨日と、昨日の、つづき)

自分がしでかしたことには、「非」しかなく

かばってくれる人が誰もいない、ばかりか

自分自身さえ、かばいようがない立場にあって

どこに救いはあるのだろう。

 

そんなときこそ、自分が、味方で理解者に

なれたらいいのだけれど、これって

なんか、いやな言葉でしか表現されていないなあ。

正当化とか、自分本位とか、自己ちゅうとか、、、

さらに自分がいやになってしまいそう。

 

今回、8才の扉を開いて

急に怖くなったことがあった。

「そんなに強く押してないのに、〇〇君、飛んだ」

と言ったのは、

本当の事の「つもり」だったのかも。

そういうことに「しておきたかった」のかも・・・

 

子どもだから?

子ども特有の思い込み??

 

周りの大人は、全員、「そんなはずがない」と断言。

私は、虚偽の発言はしていなくとも

事実には反していたのかもしれない。

 

一方で、〇〇君のお母さんは

それも含め、すべてを丸ごと呑み込むように

「いいんですよ」と言ってくれた。

 

息子がいいと、言っています

いつも仲良くしてくれてありがとう

これからも仲良くしてくださいね

というようなことを言ってくださった。

 

消えてしまいたいような私に

そのまま居ていい

と言ってくれたようなもの。

 

あの私の、味方で理解者になってくれたのは

〇〇君のお母さんだった

ということを再認識した。

 

ヨシタケさんの本にある言葉は

「いくつになっても」だけれど

わたし、今回、思った。

 

大人になってから必要なのは

「どんな時も どんな自分も」

なのだと。