護られてきたのは勘違いだったのか

2022/01/16

もうすぐ、阪神淡路大震災が起きた

朝の時間を迎えようとしている。

あの日、実家はひどい被害を受けたが

隣の大阪市に住んでいた私は、何事もなく

申し訳ないくらいの思いをしつつ

自分はものすごく護られている気がした。

この先も、周囲でどんなことが起きても

自分だけは護られていくんじゃないか?

という気さえしていた。

 

それからしばらくして

あゆみを授かるが、思いがけず切迫流産で

入院して安静が続いた。が、

私には護られている思い込みがあった。

 

想定どおり

待てば元気なあゆみと対面が叶った。

しかも予定日に、自然分娩で。

 

でも、思い込みだったんだよなあ。

自分はいつも護られている、なんて。

元気なあゆみと対面できたときに

使い果たしてしまったようだ。

 

あ、対面できたとき、までのように言ったら

あゆみが生きた時間を、軽視しているなあ。

 

私の子は、1年間生きて、暮した。

私が出会うお子さんのなかには

1日だったお子さんも

数時間だったお子さんもいる。

生まれて来れたことがすごいことで、

そこから生きた時間があったことを、

もっと大きなこと、と考えていかないと

どの子にも申し訳ないな。

 

でも・・・

もう使い切った感からは、

どうしても抜け出られない。