「いい言葉」にはわきまえが必要だ
2025/04/28ある講座で、切実な質問を受けた。
私が話したことは、
我が子や、大切な人を亡くした人が
「生きている意味がない」とか
「朝、目が覚めなければと思う」
など言って嘆くとき
死にます、死にたい、と言っているのでなく
死ぬほど「つらい」を言っていて
「つらい」の最上級を表現する言葉が
ないから、苦肉の策で伝えていることを
わかってほしい。諭すようなこと
言われると、さらにつらいと言った。
そしたら、「あー、そうだったんですね」
と言われたのが、
90台の高齢のかたがお孫さんを亡くされ
「自分が生きていることがつらい」
と言われたことも、
死にたいわけではない、つらさの表現だったんだあ
と、気づいたように言われたので
私、ちょっと揺らいだ。
その場合もあるとは思う。ただ、
90台のような高齢のかたは
若い家族を亡くすとき
本当に、本気で、自分だったらいいのに
と思い、
その子が亡くなり、自分がまだ生きていることが
心底つらかったり
責める必要のない責め方をしたり
ということが、あるようにも思う。
「じゃあ、なんと声かけるといいんですか?
生きてください、ですか?」
と聞かれると、
また困ってしまう。
もちろん、何才であっても、命は大事。
生きていてほしい、と
本当に思うのは、その人の家族や近しい人
であり、ちょっとの関わりの間柄で
「生きてください。私のために」
ほどの言葉は、作りごとに思える。
相手の心を動かすような言葉
誰でも言えるわけじゃなく
「いい言葉」には、わきまえも必要。
言って、自分だけ、勝手に満足、の
自己満足はいけないと思った。