あごの「ミミズ腫れ」が今ごろ意味をもった
2022/11/13社会福祉士や、医療ソーシャルワーカーになる学生から
授業のなかで出た最初の質問は
同じ体験をもつ人が助けになることはよく理解できたが
体験のない私たちが心がけることは何でしょう?
といった内容だった。
まず、共通体験のある人同士の繋がりが
すべてではないことを前提として話した。
共通体験者同士の繋がりと、専門職との繋がり、
両方が充実していることが、一番望ましい。
つまり、あなたたちは、
(死別)体験がないことを引け目に感じるよりも
専門性をよく磨き
体験者の話をよく聴き、教えてもらい
そこから信頼を築いていってほしい
というようなことを話した。
そしたら、
信頼を築く話の聞き方について、質問してくれた。
回答することよりも、
ご本人の話を最後まで聴いてほしい。
まず認めてほしい。
なんか例を挙げようと思い、
話は逸れるけれど、最近あったことなんですが、
とダンナのことを話した。
先日私は、家の庭で、
来客が車を止めやすいように、と
自分の車を花壇に寄せ過ぎて、車を降りるなり
花壇の縁につまづいて、花壇に転がって
梅の木に突っ込み、みみず腫れになった。
このことをダンナに言ったら
「花壇にこけてん」→(聞いてるんかな?)
「あご打って痛いよー」→「気つけなあかんで」
「ミミズ腫れになってるん」→「目じゃなくて良かったやん」
この会話、いやだった。
こんなやつに話しても、わからん、と思った。
もっと、なんで、こう言えないんか?と。
こけたん!?
そら痛かったやろう
大丈夫かいな?
本人が思う「ことの大きさ」を
その大きさで受け取ってくれた上で
「目に入らなくて良かったね」だったら、
こっちも、そうだなあ確かに
となるけれど、
「目じゃないだけ良かったやん」では
それが正しい考えだとしても、
わかってくれて嬉しい・・・ の境地は通れず
痛いところを自分で撫でておくしかない。
どっちにしても、痛いは、痛いのだけど、
痛さの耐え方が、違ってくる。
痛さも違ってくる。
痛いけれど、ちょっとだけ嬉しい、
こういう境地、大事だと思う。
なんて話した。
うん、うん、うなづいてもらえて
あの日、ミミズ腫れにまでなったけど
意味あったわ。